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思いのままの色

「音と香りは夕暮れの大気に漂う」

愛を込めて花束を

今日は久しぶりにブーケを作った。
思いの外喜んでもらえて、とても嬉しかった。



使った花
カラー
トルコギキョウ
スプレーバラ




カラーを使ったのは初めてだったけれど、茎に向きがあって(三面あったかしら)思ったように組むのが難しかったなあ。
でもそれが面白かった。


自宅には花を欠かさないが、それとは別に、自分の好みも加味しつつ、渡す相手の好みを想像して花束用の花を選ぶのは、何ともわくわくして楽しかった。


贈るという目的があると、花を買う言い訳になって、何となく気が楽でもある。
たくさん買っても、あの人に渡すものだしいいか、となる。

多少余らせた花を自宅にも生けておけるのも嬉しい。


ところで、今回は珍しく、つぼみだったバラの花が開いてきている。
つぼみのままで咲かないことの方が多かったので、これは吉兆だと一人で喜んでいる。

頂き物あれこれ

さて今日は何を書こうかなとブログを立ち上げてみたものの、取り立ててhotな話題がない。


個人的に驚かされるようなニュースに見舞われないことはよいことなのだが、はて、困った。


それで思い付いたのが、「シリーズ頂き物」。
何だかんだ、人様から何かしらの物を頂くことがあるので、その御礼と備忘録も兼ねて、書いてしまおうと思う。


と、書きながら、真っ向から否定するのもアレだが、SNSなんかで私が付き合いのあるどなたかに何かの折に差し上げたりしたものを記事に書かれるのが、ひどく苦手である。
言い方は悪いが、厚意や謝意をネタにされたみたいで、何だか寂しい気持ちになるのだ。


ところがこちらは全くの匿名である。
そして、私が頂き物について書こうと思った動機が「御礼と備忘録」なので、SNSで書かれた方も案外それくらいの気持ちで他意はないのかも知れない。


いずれにせよ他人の本意は分からないので、この辺りにして、個人の雑記ブログに書くのであれば許されるのではないかと勝手に解釈をし、これからはたまに記事にしようと思う。
言わずもがな、全てを子細に書き込む訳ではないため、贈って下さった方に迷惑は掛からない、と信じることにしよう。



最近の頂き物の中に、桜のゼリーがあった。
2層になっていて、土台がババロアの様で、上部が淡いピンク色をしたゼリー。そのゼリーの中に桜の花と金粉が乗っているもの。


上品な甘さで、世間の桜はほとんど散ってしまったが、その名残を頂いた感じがして、風情もあって美味しかった。

こちらは緑茶ではなく、紅茶と一緒に頂いた。


カップから器に移して頂いたのだが、何となく桜の花のある部分は最後に食べたくなってしまう。


塩漬けという感じの味でもなかったが、柔らかくて、その柔らかさの印象が強い、八重の桜だった。


きらきらした金粉にふわふわの桜に、美しいものを体に入れると、何だか一時美しくなれたように思えて、勝手に嬉しくなってしまう。


時を同じくしてブラッドオレンジも頂いたが、こちらも思ったよりも甘さがしっかりとあり、サクサクとした歯応えがあってとても美味しかった。


実はミカンを除く柑橘類が苦手であるが、酸っぱさがなければ好きな方に入るのかも知れない。
自身への思い込みというのも結構あるものである。


美味しく素敵なものをありがとうございました。

初夏のクローゼット

桜もすっかり葉桜になり、あの夢のような光景がそれこそ夢だったかのように緑が押し寄せてくる。


季節が変わるのは早い。


冬物のコートなんかは3月に入った時点で早々に片付けてしまっていたが、ニットの類いはしばらく出したままで、気が付くと4月も終わり掛けている。


この間、肌寒い時に、うっかりカシミヤのニットを着てしまったが、昼間になるにつれて暑かったのはもちろんのこと、4月の日差しには少々不釣り合いな感じがして、その日の帰宅後に洗って片付けてしまった。


今もしぶとく着ているニットは綿が主体のものだが、もうそろそろ限界かも知れない。


昨年辺りまで春先に着ていたものは、季節が終わった頃に処分してしまったため、今は昨年とは別人のような格好をしている。


今年は何を着ようかな。
と言っても、もう春どころか初夏の気配がしているんだけど。


先日、羽織るものを求めて買い物に出掛けた時に、たまたま見つけた、薄い青に細い細い白のストライプの模様のシャツを買い求めそうになったが、今の私の髪型と相まって、どう見てもブルゾンちえみさんだったので、思い止まった。

ブルゾンさんは好きだけど、三十路の星だと思ってる、私はお化粧も面倒で薄くしかしないし、あんなにセクシーな体型ではないので、シャツをしっかり着て少年のような見た目になってもなあ、と、思い止まったのだった。


何の話だったか、そうそう、結局羽織るものは淡いグレーのパーカーを入手して、あれ?やっぱり少年みたいだ笑、でもグレーのパーカーは冬場も着ていて、それこそ冬用の物を仕舞った代わりにクローゼットにお迎えしたので、見た目は昨シーズンから大して変わっていない。


さすがにパーカーだけで生きていくわけにはいかないので、その中に着るものをどうしようかな、と思っている。


カーキのテロんとした生地のシャツもうっかり増やしたが、そちらにはまだ袖を通していない。


シャツは他にも少し持ってはいるが、アイロン掛けが、ちょっと億劫でなかなか手が伸びない。
季節感はバッチリなんだけどなあ、シャツ。


流行りのふわふわした袖の服とか、花の刺繍が施されたブラウスとか、かわいいけれど、写真や道行く人の着姿を見るだけで満足してしまう。


おしゃれもしたいが、忍者にもなりたいぞ。
どうしよう。初夏のクローゼット。


買い足したグレーのパーカーとカーキのシャツを、とりあえずは活躍させようか。

Facebook幽霊部員

タイトル通り、なので何のひねりもありませんが。
Facebook幽霊部員です。


アカウント消す消す詐欺時代を経て、スマートフォンFacebookアプリを消してからは、ひたすらにログインしない日々。


アカウントを消す元気は消失。
でもアプリを削除しただけ、距離ができてよかった。


どなたかが更新なさる度にアラートが鳴るのを、あれは設定で変えられたりするのかしら、分からないままで面倒だったので、アプリだけやっつけてしまった。


何とまあ静かなことよ。
素晴らしく。


他は電話かメールくらいしか私を呼びつけないスマートフォン
最高!


数年前に勢いに負けて始めてしまったFacebookだったが、どうにも苦手意識が消えないままで、これはシステムに慣れれば何とかなるのかとも思ったが、私にとってはそういう問題ではないらしい。


一つ思い当たる節がある。


Facebookって、学校そのものだなってこと。
実際には選んであるはずの人間関係が、「付き合い」という「世間」のもとにほぼ無尽蔵に増えていく。

これに着いていける、もしくは、それを楽しめる人は、学校が大好きだった人に違いない。


よくよく思い返してみると、Facebookのそもそもの成り立ちからして、この主張とも言えぬような主張も、あながち間違いではないのではなかろうか。


何となく学校という環境そのものを心の芯にまで落とし込んでいなかった、つまり、面倒くさいなって思いながらも通っていた私のような人間としては、Facebookを活用することなんて、ハナから向いているわけがないのだ。


あースッキリした。


Facebookは一応連絡手段の一つではあるので、さすがにアカウントを消すまでは振り切れないけれど、そこそこ学生生活を上手いことやっていたように見えたであろう私としては、そこの所は適当にしたままなのでした。


何の気負いもなく自然と楽しめるのは羨ましくもあるけれど、いいんだ、無理は続かないもの。


そのうちログインすると思うとドキドキする!
何も投稿したりしないけれど。

サシで話すのでもなく、こうして不特定多数に向けて書くのでもなく、特定多数のしがらみ有りに向けて書くっていうのが、演説ならまだしも…それか何かの宣伝ならいけるのか…とにかく感覚としてよく分からないままだった。



結論、私の知らないところで皆それぞれ元気でいてくれたらそれで十分だ。
お幸せに!


そろそろ初夏の気配がしますね。

断捨離失敗のその後

この間の続き。

激しく後悔して、考え直して、廃車依頼の翌日の朝に、廃車の取り止めをお願いした。


こんな話、誰だか特定されてしまう。けれど、よいのだ。


お騒がせしてごめんなさい。


無事に私の車は私の元へと戻ってきてくれて、泣き腫らした目元もすっかり落ち着いて、何だかもう何が起こったのか…ひたすら周囲の皆さんを巻き込んでしまっただけのような気がする。


けれども、私の中で、しがらみ云々で車を維持しているのではなくて、この車が大好きだからずっと乗ってきたのだということがはっきりして、それには救われた。


人にはそれぞれ生きている場所や環境が当然あるけれど、やむを得ずではなく、「それ」を自分で選び取ったのだという確信が持てるのは、それもまた心の支えになるのだと思った。


愛車は引き取る前に点検をお願いした。
お世話になった方と車へのいくらかのお詫びと償いになればと思って。


それにしても、あんなに泣いたの、久しぶりだったな。

傷んでどうしても乗れなくなってしまうまで、大事に大事に乗ろう。

断捨離失敗

ほとんど勢いで愛車を手離してしまったのを、猛烈に後悔している。

実質的に不便さを感じ始めるのは、次に冬が来る頃だろうと、今になって思えてきた。


無理やりに慰めるとしたら、実際に手元から離れて行ってしまったのだから、それまでの縁だった、ということなんだと思う。

でも、自分ではあの車が居る(ある)のが当たり前過ぎて、すでに安心毛布と化していたことに気付けなかった。


随分と昔に親に買ってもらったものだったし、車両の名義も親のままだったので、手続きに同伴してもらったのだけれど、何だかもうずっと悲しさが止まらなくて、ものすごく酷いことをしてしまったのではないかと、今さらながら悔やんでも悔やみ切れない。


まだきれいだったし、距離は乗っていなくても、思い出はたくさん、思い入れもたくさん、あったのに。

ちょっと不便になるくらいだろうと、目先の節約を優先させた私が馬鹿だった。

親に現住所まで送り届けてもらってから、今日一日で我慢した分の涙が止まらない。
年に払うたった数万円の為に、あんなに悲しそうな寂しそうな顔をさせて本当によかったのだろうか。


相棒を手離した罪悪感と相まって、あまりの申し訳なさにどうしても泣けてくる。

まだ他にも済ませなければならない手続きがあるが、いい大人が人前で泣いたりなんかしないように気を付けなければならない。


愛車とともに長い長い歳月を過ごしてきて、いつも守ってもらっていたのに、それに自分で買った物でもないのに、ほとんど勢いで話を進めてしまって本当に馬鹿だったと思う。


想像以上の悲しさや切なさがこんなにも胸に押し寄せるなんて。

親に直接謝ることも出来なかった。
絶対に泣いてしまうと思ったし、誰か悪者を作ってしまう。


廃車のお願いだから、もう二度と、奇跡的にどこかで見掛けることもないだろう。
そんな大事なことだったのに、あれだけ悩んだとはいえ、どうして決行してしまったのか。

少しでも悩むのなら、もうちょっと何とかやりくりして維持する道を選べばよかったのではないか。


何だかあの両親の悲しそうな顔が焼き付いていて、その考えたくもない辛さに、考えが堂々巡りをしている。


後悔してる、なんて伝えてしまったら、どうして止めなかったんだろうって、また辛い思いをさせるかも知れない。


でも、悲しい思いをさせて悪かった、とだけは伝えようと思う。
次に会えたら。

ごめんね。今日までありがとう。

打ち明け話の類い

ご無沙汰してしまった!
たった一月でもいろいろあるね。


諸事情につきオブラートに包んで書きます。
打ち明け話の類い。


単なる愚痴を吐くのが嫌いで、ずっとずっと何もかもを胸の内に仕舞っておく質(たち)だったが、うっかり何かの拍子に話してしまって、出るわ出るわ。

大変ご迷惑をお掛けしましたごめんなさい。


なんと言うか、自分で解決策を見つけるか、解決済みか、もしくは遠い昔の話なら愚痴でも可(ただし何かのお礼をする)と決めてきたので、私の気の短さとか、心の狭さとか笑、神経質さとかを身近に知る人ってごくごく限られておりました。


よって、大変驚かれたのですね。
失礼いたしました…ありがとう。



愚痴というのは、ほとんどが誰か相手のあることだと思うのですが、それを話すのは自分が愚痴をこぼしているのか相手の悪口になるのか、その辺りの区別が私には曖昧に感じられて、じゃあ黙っていよう、というのが、やはりベースにはあります。


加えて、そんな話は大して楽しくもないし、思い出すことで気分も悪くなるしで避けまくって、もとい、誰にも話さずにいることを課していました。


でも腹に据えかねるわ!
ということと、黙ってて見えなかった人間模様で被害(私としては)が拡大したのもあり、ここらで正直に
「私は出来ればあの人には二度と会いたくないです」
って話をしてしまった。

それはびっくりやわ笑。



それで、私の選んだ手段は、
「出来るだけ接触しない」こと。
だって感性が違うのだからしょうがない。
表現の仕方も違うのだからしょうがない。
親しくしてきた人を嫌いにならずに済むように、ほどほどの距離を保つことにする。


自分の身を守るのが自分なら、自分の心を守るのも自分。
喧嘩をするのは趣味ではないので、喧嘩をしなくて済むところに居ればいい。


それで、私に関係ないところで幸せでいてくれれば、私はそれが嬉しい。
(何かある度に呼びつけられるのは困る)



この一連の出来事でつくづく思ったのだけれど、自分を幸せにするのはもはや義務やね。
自分のことは自分で幸せ(と感じられる状態)にする。

Aの不満→愚痴る→B巻き込まれる→Bの不満→愚痴る→C巻き込まれる…
のループは、地獄の拡大って感じ笑。


たまにどうしようもなくて助けてもらうのは、人間だもの、あると思うけれど。


Aさんの不満をAさんが解決出来れば、地獄(便宜上使ってます)は拡大しえない。

ということは、自分が幸せでいたら、不幸や不満や真っ黒いものを、そんじょそこらに撒き散らさなくて済む、ということです。


あああああ精進せねば。
色々腹も立つけれど、自分を大切にして、違うところで炎を燃やしましょう。

ゴリゴリのスーパー合理主義人間としては、自分を幸せにすることはやはり義務でしかないと思えるのでした。



っていうか、ブログをサボってたから鬱憤たまったんじゃないの、とも思ったのは内緒!
ごきげんよう