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思いのままの色

「音と香りは夕暮れの大気に漂う」

ユトリロの展覧会

先日、ユトリロの絵を観てきた。

このところ、何だか調子が今一つだったのを、チケットを頂いていた為に、何とか会期のうちに足を運べて義理と希望を果たせたとホッとしている。



正直なところ、ユトリロの白の時代とかいう、どちらかといえば陰鬱な調子のパリの街並みの絵が続くところは全くと言っていいほど目に留まらず、「たしか好きだったはずが、それは気のせいだったのかしらん」と早々に気もそぞろになっていた。

御礼をお伝えする時にお主は何と申すのだ!と、いよいよ目前の絵の群への集中もどこかへとすっ飛んだ頃に、あった、あった。ありましたよ、好きな絵!

「古いマキ、モンマルトル」

とかいうタイトルのもの。


マキというのが、20世紀初頭にあった旧規格の家並みだそうで(たしか)、その家々の窮屈に建ち並ぶ様と色彩とが、異様に私の心を掴んだのでした。


話半分に聞いて(読んで)頂ければ結構というか大変恐縮なのですが、その絵を見た時に、
「あ、懐かしい」と思ってしまって。
不思議と、あそこに住んでいた気がする。


何のことやら自分でも分からないけれど、妙にその絵ばかりが気になる。


単純に色遣いが好きなだけかもしれない、古びながらも鮮やかなあの緑色の入った感じとか、赤みの差し方とか。



もうあの絵に合えた、それだけで、来てよかったと思った。
(ありがとうございました)
(このブログは内緒ですが)



あとは芸術家のための夜会のポスターも好きだな、紳士と淑女の後ろ姿がたくさんの。静かに高揚してる感じの。
ところで、昔の人の服装にある程度の規則性が保たれていたからか、昔の人の集団って絵になる。と思っている。もちろん階級差はあっただろうけれど。


それから、(たしか)青い花瓶に生けられた花の絵も。
一目見て好きになった。お家に飾りたくなる絵。


ユトリロは花も描いたのね!知らなんだ!と、そばの但し書きをよく見ると、どうやら意中の女性に向けて花の絵を描いて贈っていたらしい。
なんて素敵なんだろう。


すっかり余談だけれど、誰かにお花をもらうのってすごくすごくすごく嬉しい。
すごく!嬉しい!


ずいぶん昔、花屋さんに花を見つけに行ったところ、若い男性が店員さんに花束の注文をしているのに出くわしたことがある。
何でも彼女に、というか女性に花束を贈ることそのものが初めてだそうで、たまたま居合わせた私にも意見を求められた。

彼女がどんな花が好きかも分からないが、女性は花をもらって果たして喜んでくれるだろうか、と。

私は、女性ならきっとどんな方でも喜ばれると思いますよって、何だかドキドキしながら伝えた、気がする。
そして成り行きを見守った。

すると、その若い、といっても当時の私よりかは年長らしい感じの男性が選ぶ花の色が、品があってハイセンス(死語?)な代物だった。


その素敵な花束をこれから受け取るであろう女性が、何だか無性に羨ましくなったことははっきりと覚えている。


恋人のいなかった私には、もう眩しくて仕方なく、見ず知らずの彼女がすっかり喜んでくれることを、こっそりと願うばかりだった。
どうか、お花が好きで、あの真っ直ぐに素敵な花束と彼の心意気を、そっくりそのまま喜んでしまう女性でありますように、って。
…超がつくほど生意気に!笑


そこから、すっかり憧れなわけです。
男性から花束を贈られること。



昨年はお誕生日に友人が花束をくれて、とてもとても嬉しかった。
何だか常日頃から「花が!」「綺麗なの!」と言いまくって(?)いるのもあり、珍しく美しい花と花束を頂ける嬉しさをもらってしまったのだった。
(みんなありがとう!)
(ところでこのブログは内緒だけれどまだ)



それで、ユトリロさんも(こちらは絵だしご本人の作品だけれど)似たようなことをしていたんだなと思うと、時代は違えど愛を表すのにはやっぱり花なのね、と、ちょっと胸が温かくなったのだった。

ところが、彼は基本的には人間不信あんど女性不信だったというのだから、人生色々である。



一通り展示作品を観て、最後に上述の三点は戻って再び目に焼き付けて、会場を後にした。


無理やり行ってよかったよー!
ユトリロ展。
終わっちゃったけれど。



そして展覧会の楽しみといえば、ギャラリーのお洒落観察なのですが…お邪魔した時間帯のせいか、お着物をお召しのマダムとか、上等なコートがお似合いのダンディなおじさまとか、お出掛け感のある方がいらっしゃって、そちらも見応えありでした。


ちなみに私は、陰鬱なパリの曇り空のようなニット。
ユトリロの空は、何だか寂しい。特に前半。
そんな感じの、曇った色の服でお出掛け。
行けてよかったです。

自己紹介なぞ、してみましょうか

ようこそ、いらっしゃいました。
ブログ用の名前を考えてみたのですが、まだ決めかねています。

寅年の30歳です。
20代の内についぞ上京はできませんでしたが、生きている間に一度は都内に住んでみたいです。

東京に住みたがっていた頃に、「何故?」とよく聞かれましたが、真面目に答えるのが面倒くさいので笑、「地方出身者が都会に憧れて何が悪い」ということにしておこうかと思います。



…実は、モデル志望でした。
ところが良縁叶わず!…

都内での仕事は2件取れただけで、あとは地方で企業の広告を少々。
つまるところ、本業はイベントコンパニオンのままで、あんまり書くと誰かお会いしたことのある方に特定されてもアレなので笑、まあとにかく一度夢破れてる人です。
山河ありです。



腐ったままでいても仕方ないので、とりあえずブログを立ち上げてみました。
顔を出すつもりは今のところありません。


お家にいる時は概ねピアノを弾いています。子どもの頃にだけ習っていました。
ショパンが好きで、今はショパンしか弾きません。素人なので、完全に自分の為だけに続けています。
楽しい!
いつかフジコ・ヘミングさんのコンサートに一度は行きたいです。



静寂と一人きりの時間をこよなく愛しています。
騒々しいところと人混みと行列に並ぶのは嫌いです。
(イベコンは最高に不向きだった!笑)



静かなところといえば、美術館に行くのが好きで、気になる展覧会にはできるだけ、それも一人で足を運ぶようにしています。
好きな画家はマリー・ローランサン


好きな色は、
ニットなら淡い灰色、
ワンピースなら明るさのある紺色、
鞄や靴なら艶のある黒、
ハンカチなら鮮やかな水色か華やかな濃いピンク、
食器なら白と青、
花と猫なら何色でも。



香水はGUERLAINのサムサラを愛用しています。
私が棺桶に入る時には(万が一纏っていなければ)どうか振り掛けて下さい。



ざっとこんなところでしょうか。
もしも何かご質問がおありでしたら、お気軽にどうぞ。答えられる範囲でお返事いたします。


それでは、どうぞ当ブログをお楽しみ下さい。

あなた様にとっても今日が佳い一日でありますように。

同時に多発する自分

読まれるかどうかも不確かな不特定多数に向けて書くのはどうかと思うが、私にも地面に掘った穴が必要なのだと思う。

気持ちの弱った人は、できたらこの先を読まずにいてほしい。



YouTubeなんかで少し気になっている歌を聴いて、縁あってその曲の全貌を知ることになったのだけれど。

始まりの和音を聴いただけで、あ、これは一人で聴かないとマズイなと思って、瞬間的に他のことに気を向けた。
何人かでの旅の途中の車中で、急に泣き出す訳にもいくまい。



いい曲だよね、って、聴かせてくれた友人にとっさに話し掛けた。
黙っているとしっかり聴いてしまいそうだったから。



お家に帰って、しばらく経って、なかなか聴く勇気が出ない。


一度、もらったCDアルバムをサラッと一周聴いてはみたが、その曲にどうしても気が行く。


あーあ。見つけちゃった。


知ってたつもりだったけれど、たまたま見つけた、たった少しの動画で心を動かされていたのだもの。
全て聴くのが、ちょっと怖かった。


でも、聴くしかない。




突然話が変わるが、私はこれまでの年齢の私自身が同時に存在すると考えていて。
今この時に、例えば小さな時の私が、共に存在すると。

あの時もその時も立ち尽くすしかなかった、小さかった時の自分。
何かを感じているのに言葉にもできない、上手く、適切に、自分の心に沿った言葉で言い表すことのできないもどかしさ。


大人になるというのはいいことだ。
そのような不自由さからは多分に解放される。
たくさんの言葉を持つ、知っていくというのは素晴らしいことだ。


それでも、どうしても掬いきれない、認識できる範囲をすり抜けて心の底に落ちて行ったその時々の感情の数々を、たった一つの歌が、始まりの和音が、どうしようもなく心に響いて、否応なしに突きつける。


日常で一々受け止めていたらやり過ごせないこと。

あの時に解決したと思っていたはずの、実は遣りきれなかった気持ち。

「今」直面するのはまずいと、咄嗟に追いやった感情。



どこかへと仕舞いこんだ思いの丈が、言葉にはならず、代わりに視界が滲むその時に、思い知るのだ。

そっか、しんどかったね、自分で気付くことも出来ずに、と。



たった一人で抱えて、泣くことも堪えて、何からそんなに守ろうとしていたの、と。


そうして声を上げて泣く時に、上手く理由が見出だせないながらも、止まらない嗚咽にひどく納得している自分に気付く。
そして、同時に存在する幼い私を思って、今よりかは若かった時の私を思って、今は泣いてるだけだから大丈夫だよって、一瞬思う。もう大人だからね、泣くのはここでだけ、何とかしてきたし、これからも何とかしていけるから大丈夫って。


そして、これが誰かの前ですることでなくてよかったと思う。


慰められるなんてまっぴらだ。

一々余計なことを言わない人の方が、私は好き。



再び話は逸れるが、小学生の頃にしていたソフトボールの監督に言われた、泣いている人に声を掛けるのだけが優しさではないぞって話と、その情景を思い出す。
悔しくて泣いている当時の友人に、居たたまれなくてつい側に行ってしまったが話してはくれず、その彼女を思う優しい気持ちは良いし分かるけれど、と。
当時はその言葉の意味を分かっても、すぐに腑には落ちず、彼女にひどく悪いことをしてしまったと、思いやりの足りなかった自分を恥ずかしく思ったものだった。



生きてれば、色々あるけれど、基本的にはここまで生きてこられたことを、祝福していたい。
誰もが等しく、その人の時間を生きている。
それを思うと、命のある私は幸せだし、幸せでいられる。


どれだけ泣いても、生きてれば大丈夫。
これまでの私を救って、ここからの私も何とかする。



以前、歌を何で聴くかと訊かれたことがあった。音に感動するのか、歌詞に感動するのか、何があなたの心を揺さぶるの、と。

私は音が先だ。歌詞の意味を認識するよりも早く、音が、胸に広がる。
もちろん歌詞にも胸を打たれるが、何かを聴いた時の、あ、見つけちゃった、というのは、それぞれの「この音」からばかり始まる。

サイレンが用を成すのも、危機の迫ることを端的に表しているからだろう。

だからきっと誰もが、音から、自分の内に取り込むのではないだろうか。



自身で気付き得なかった、今の心の形に寄り添う音楽。
様々な思いがふっと一時に押し寄せて、突風が雨を連れて、景色の何もかもを洗い去っていく。


それに成す術もなく、傘も差さずにやっぱり立ち尽くして、でも同時に存在する私が-----これまで生きてきたのだもの-----支えてくれている気がする。


だから、うっかりたくさん泣いても大丈夫。
そのうちに雲の切れ間から光が差して、また日常に戻ればいい。

最近お別れしたものと足元の下着事情

ずっと迷ったまま保留にしていた服を手放した。


まだ昨年だか一昨年だかに買ったワンピースを二着と、昨年の夏に買ったスカートを一着。


ワンピースの片方はウインドウペンチェックのもの。流行っていたよね、と、すでに懐かしい。

もう一方はダークグリーンというかオリーブ色の、襟のついたワンピース。

いずれもミニ丈で、冬場はタイツ必須のもの。


ところでこの冬は、思いきってタイツを穿くのをやめた。
というのも、腹部の締め付けとつま先の窮屈さに耐えるのが、何だか急にアホらしく感じられるようになってしまったため、でした。


そうかと言って、セクシーなガーターベルトとストッキングに走る気概もなく、物は試しにと履いたニーハイソックスが密かに大ヒットしています。


この冬は、単純に寒いのと好みの変化でスカート丈を膝下のものに絞ったことにより、ニーハイソックスでも目のやり場に困るような見た目にならないところも、素晴らしく気に入っている。


余談だが、膝の見えるスカートにハイソックスで膝の辺りだけ丸出しのスタイルは絶対にしないと決めている。
何だか女子高生みたいで、女子高生なら素敵だろうけれど、もうすっかり大人なのでそっくりそのまま取り入れるのは止めよう、という、ただそれだけの理由でした。



ようやく手放したミニ丈のワンピースは、ニーハイソックスでは肌が少々目立つのが難点で…でもタイツはもう穿きたくないし、でもワンピースが傷んでしまったわけでもないのになと、ずっとクローゼットから出しては戻しを繰り返していたのですが。


「でも結局着ようともしてないよね」


と思い直し、エイヤッとハンガーから外して畳んで、然るべき手段を講じたのでした。


気に入ってるものは、やっぱり着てるもの。
前にたくさんたくさん着たからいいよね、これまでありがとう、とお別れ。

幸いにも着て撮ってもらった写真も残ってるし、悔いなし。



一方、上述のスカートは、丈に関しては文句のないもの。
でも、色味を冒険していたものでした。今までなら絶対に選ばないなっていうピンク色。それでも一応は気に入って手に入れたものだったのですが…

座り皺が目立つためこまめな手入れが要るのと、スカートそのもののシルエットが、何だか私が着ると体が細いを通り越して貧相に見えてですね。

「何だか無理して着てる」

ように思えて仕方なく、次第に着なくなっていたのでした。


こちらは一度畳んで仕舞い、季節が変わったら復活させようとも思っていたのですが、クローゼットを何となく春に向けて調えていると、それだけが明らかに浮いていて、他の服と馴染む気配がなかった。


というわけで、こちらのスカートともお別れ。
あんなに悩んだワンピースを思い切れたのだから、そこまで思い入れの無いスカートに執着する理由も見出だせず、さようなら。



今後のお買い物に生かす点は、

一、もうミニ丈は買わない(三十路という事実を気にしてる)

二、どんなに可愛くても目がチカチカする柄物は買わない

三、服の色で気分を変えようとしない

四、服屋さんで買わずに出ることを覚える


といったところでしょう。

手放したお洋服には、私以上に大切にしてくれる人の元へと貰われて行くことを願うばかりです。


すっかり地味好みになってしまった!

浮かれるお買い物

誰かへの贈り物を選ぶのは楽しい。

目当てのお店に行って、あの人はどんなのが好きだっけ、とか、これなら使ってもらえそう、とか、あれこれ考えるところから楽しい。


私自身は物をたくさん持つのが苦手で、とにかく部屋をスッキリとした状態に保っていることを信条にしているため、必然と誰かへの贈り物は消えものばかりを選ぶ。ようになった。


もっとずっと昔は、友人にアクセサリーとか、彼に名刺入れとか、母にヨーグルトメーカーとか贈ったりしたこともあったけれど…


東日本大震災の後、家の中の安全度を上げねばと物を大量に処分しだしたのがきっかけで、どんどん好みが変わっていったのだった。
その過程で断捨離も知った。


なので、できるだけ、手元に残らない物を探す。
食べて無くなるか、使って無くなるもの。
となると、美容にまつわるものや、高級チョコレートなんかが選びやすい。

もしくは、自分で花束を作って贈ることもある。それはそれでとても楽しい。
好きそうな花や組み合わせを考え、包装も考えるのが、お花屋さんになったみたいで楽しい。


余談だが、ごく小さい時の夢はお花屋さんになることだった。


もっぱらお客さんでしかないが、趣味の範囲でそれらしいことができるので、人に花を贈るのは実は自分が一番喜んでいる気がする。



最近も立て続けに贈り物をすることがあったが、心が決まって、いざ買って帰る時のあのどうしようもない嬉しさは何だろう。
とんでもなくウキウキする。
スキップして帰りそうになる笑。


自分が欲しかった物を、いよいよ念願叶って手に入れる時よりもはるかに嬉しい。



プレゼントを用意したことも内緒にして、いざ渡す時もワクワクする。

なので、贈り物とは贈る側が最高に楽しいものだと思っている。

いつもありがとう、が形にできるのが嬉しいのかな。
本当は足りないくらいなんだけどさ。


最近はそれとは別にカードや手紙を郵送することにも夢中になっている。
お祝いのメッセージを書いて、切手を選んで、ポストに投函し、届いたよ!って連絡が来るまでドキドキする。

何なら、切手や便箋を買いに行くところから楽しい。


つまり自分が一番楽しんでる笑。


みんないつもありがとう!らぶ!
これからも仲良くして下さい。

閉店のさみしさ

好きだったお店が無くなってしまった。

その場所であとからまた違う方がまたカフェを始められるそうだけど、そのお店にやっと来られた!と思ってウキウキしていたら、外にあった張り紙で知って、急に後悔した。

せめてもっと前にコーヒー飲みに行ってればなって。
コーヒーもその空間も雰囲気も時間の流れも好きだったから。



前にもあったな、好きだったお店の閉店。
正確には遠くに移転しただけだったけれど、遠くて、結局通わなくなった。


もう一軒お気に入りのお店もまるっきり無くなった。


仕方ないんだけど、悲しいものは悲しい。


またお気に入りのお店が見つかればいいけれど、何度も通うお店って限られる。

知人のお店か、何かが美味しいか、居心地がよいか。


お店の居心地のよさって、音楽もインテリアももちろん大事だけど、店主を好きになれるかどうかと、どんなお客さんに会うかというのが大きい。

お店で用意して下さる料理やサービスが素敵なのは大前提としても、やっぱり人ありきだなと思う。

この人にまた会いたいって思うところには通うもの。

偶然にしてもあまり騒々しいお客さんばかりだと、よほど何かが美味しくなければ、二度と足を運ばないことの方が多い。


そうやって考えると、飲食店を続けていけるのってすごいことだよね…


また気に入ったお店を見つけられたら、大事に通おう。

楽器とダイエット

もう少しで一区切りつくと思うとドキドキする
ピアノのお話です。

目下練習中の曲の終わりが見えてきた。長かった。

少し寂しい。

弾ききってから言いなさい、とも思うけれど、正直なところは、寂しさも感じてる。


勇気と技術が伴えば、どこかで発表できたらいいな。

まず身近な人に聴いてもらって、外でも弾いて、ネットの海に解き放ってみるとか。

それで、ブログに載せるの。


難しいことではないよね、たぶん。
誰もがやってることだし。
(いつか何とかして、わたし!笑)



ところで、世の中は何かしらの楽器を演奏する人と全くしない人とに大別されると思うのですが、もし減量法に悩んでいる方がいたら、楽器を演奏することをオススメしたいです。
というのも、(遺伝か体質その他生活習慣は加味されているとしても)、ずっと細いのですよね、私が。


それなりに効果を見込めそうな根拠としては、単純に楽譜を読むだけで頭を使うし、ピアノって指だけではなくて何だかんだで全身を使って弾くことになるしで(説明が雑ね)、体感としてけっこう熱くなること。
芯からわーっと熱が沸き上がる。


それで、今の時期なんか厚着したまま弾き始めても、汗をかいてしまうから、どんどん脱ぐし、袖もまくる。


滅多に吹かないフルートも(ごめん)、当然たくさん体を使う。
人と合わせる時なんかは特に音程やその他、合わせるために意識してやることがたくさんある。


私はピアノとフルートしか知らないけれど、バイオリンなどの弦楽器も似たようなものではないだろうか。
打楽器なんて言わずもがな。



学生時代からこれまでのことを思い返してみても、音楽つながりで知り合う人で「やせたい!」とダイエットしたがっている人にほとんど出会ったことがないです。


大学などで専門的に音楽を学んできたわけではないので、もしかしたら目立つ体型の人も一般的だったりするのかも知れませんが、病気でもない限り、太ったままでいることはまず無理なんじゃないかな。


昨年は久しぶりにフルートで出番があったのですが、たった数曲吹いただけでも物凄くお腹が空きました。
用意して頂いた大きめのお弁当もペロリと平らげられるくらい!


だから、急に話が変わった割にはけっこうマジメにオススメしたくなるくらい、楽器演奏はダイエットに向くと思うのでした。


こういう時って写真でも上げればいいのかな?

でも、ご自身の周りに一人はいませんか?何かの楽器を趣味でも本業でもとにかく演奏する人。
きっと痩せてる印象の人が多いのではないかしら。


仮に始めはダイエット目的でも、楽器と音楽に触れる楽しさを覚えてしまえば、無理な食事制限とか必要無くなると思う。



ピアノは再開してからずっと続けて弾いてるけれど、少しでも集中してやれるのは、何だかとても楽しい。
自分を使いこなしている感じがする。
覚えていくと特に。

楽譜に書いてあることをなぞって思い描いたように弾けると、体が熱くなる。でも足りない。このままもっと弾いていたくなる。
ブランクもあったけれど、ピアノが人生にあってよかったと思う。



冒頭の話に無理矢理つなげると、今取り組んでいる曲は子どもの時に難しくて一度諦めた曲だったので、終わりが見えると余計に胸がいっぱいになる。


仕上げてしまいたい、でも仕上げた先も見たい。
もっと弾き込んで、自分の曲にするまでは。


つまり、一生ものなわけです。


それこそ自分の体も一生ものなので、音楽をやるというのは一石で何鳥かは分からないくらい、無数によさがある。とも思うのでした。


繰り返しになるけれど、あらゆるメリットを無視しても、自分がしたいことを直接やれるのは、生きててよかったと自分を肯定する元になる。

すっかり自信を無くしていた私には持ってこいなのでした。



明日もまた弾こう。
ちゃんと続けられるのが、私はとてもとても嬉しい。