思いのままの色

変な夢と、淑女のたしなみについて

姿勢はできるだけ正しましょう

表題の通りです、何の捻りようもありません。
「姿勢はできるだけ正しましょう」。

ただ姿勢がいいだけで、褒めてくださる方はたくさんいらっしゃいます。


仕事で一緒になった方々、姻族、知人、果ては見知らぬただすれ違うだけの人々までが、「姿勢がいいね」ということを、わざわざ口に出して話し掛けてくださいます。


それに関連して、「颯爽と歩くわね」と褒めてくださる女性もいらっしゃいました。


そのように声を掛けるというのは、なかなかに勇気の要ることではないかと思うのです。
他人の愛に触れられる、その思いがけない喜びを、「姿勢がいい」というただそれだけのことで、知るとは思いもよりませんでした。


女性でいえば、一番前にくるのは胸です。
お腹は意識して引っ込めましょう、豊かな腹部が美しさを伴う方は限られていますから。
顎は軽く引きます、顎が上がっていてもよいのは、立ち止まり美しい空に見とれている時だけです。もしくは素敵な男性に口付けされる時のみにしましょう。


そしてもう一つ。
美しい姿勢は健康に繋がります。体調の優れない時は、姿勢を保つだけで体力を奪われていることをひしひしと感じるでしょう。
そのような場合は、できるだけ速やかに体を休めましょう。
元気でいるということは、美しさの基盤となるものですから。


もう一つだけ付け加えるとしたら、それら現実的な利点の他に、姿勢を正すことの意義を考えられたことはおありでしょうか。
そこが根本であり、私が計らずも褒められることになった理由であると思います。そしてそこにこそ、その人らしさが表れるものではないかと思います。


私は、まずは形から入りました。子どものうちには、その姿勢について大して褒められたこともありません。まずは姿勢を正すことに専念していた時期ですから。


今は姿勢を正し続けることに明確な理由があります。「身に付いた」から、その理由が見つけられたのだと思います。


訳が分からないとイライラなさる前に、まずは今すぐに姿勢を正しましょう。
ヒントは、姿勢を正すと、「そこ」が美しくなるということです。



夢佳

淑女のたしなみ、はじめに

長らく当ブログの主題に何を据えたものか、ずっとずっと決めかねていたのですが。


どこかの誰かに、例えばあなたに、役に立つものが書けるとして、それが何なのかを見つけられずにいたのです。


もしかしたらこの試みも、この先にどうなるものやら、今の私ではサッパリ分かりませんが。


職業柄も手伝ってなのか、いやいや謙遜してもしょうがない、ところが長所を鼻にかけても全く無意味なので…

とりあえず、私が気をつけていることを、取るに足らないことから、もしかしたら大切かもしれないことまで、これからあれこれ書き付けていこうと思います。


何を?って、有り難いことに
、これまでの人生の時間で「品がある」と褒めてくださった方が多いのです。

これを自分で書くのは非常に野暮天で心苦しさが果てしないのですが、あなた様の目の前に立って実演していない以上は、恥を忍んで自ら書くしかありません。


綺麗になりたいと常日頃から思っている全女性の、何らかの足しになれたら幸いです。
ご自身を守る手段の一つとして、是非とも、些細なことから美しく、生きていくことを提案いたしたく存じます。



何か伝わるかな?


これはある意味で研究でもあるのです。私も、私自身が何ゆえ品があると称されるのか、分からずにきたのですから。


ですので、この私と同様に、普段の振る舞いを見つめられることによって、あなた様もご自身を見つめられる契機になりましたら、ともに変わっていけるのではないでしょうか。
何かを読まれるということは、何かしらの知恵をお求めでしょうから。
そこは同じですね。


一つ、私自身への戒めも込めて申し上げておきたいことがあります。
自身を美しくすることに、心底から興味のない女性はいないと思ってはいますが…それでは何故、「美しくあること」に向かってしまうのかを、考えられたことはおありでしょうか。

その動機は、極めて私的なことも含むと思いますので、わざわざ人に打ち明けたりする類いのことではないと思います。


書きながら矛盾するようですが、是非ともご自身とご自身のことを相談なさって、どのような人の考えを採り入れていくか、厳選なさることをお奨めします。


私は、自分には正直に、人には優しく、生きて行かれたらと思っています。
そして人生の各所で、自身の振る舞いは助けにもなり、また刃にもなると、思っています。

気を付けながら、でも気楽に。
今日を無事に生きられるというのは、実に幸せなことです。



夢佳

サボりすぎでしてよ

このブログの話です。

一つ違うことに夢中になると、すぐにそればかりになってしまう、ゆえに放ったらかす。
(あれ、方言かしらね)


ある意味分かりやすい人間なのだと、こういう場合にしみじみ、自分という人について思い知る。

皆さんは、ご自身について、どれだけ知っていて、また、どのような気持ちを向けておいででしょう?



こうしてブログを書くような人間は、きっとどなたも同じくらいかまたそれ以上に、どこかで何かを読まれていると想像するのですが。

私に限ってお話しますとね、読書の傾向というのはやはり限られてくるように思うのです。


つまり、「とりあえず何か一つ自分の中で解決するというか答えを出すまでは」同じ主題のものを、本を変え、人を変え、ブログを変えて、探り続けるのではないかと。



例えば私の場合ですと、「どのような人間としてあるか」というのは、外せないものみたいです。
分かりやすいものとしては、マナーの本とか、分かりにくいものとしては、こういう人が素敵だったというエピソードの載ったものとか。


どうしてあの手この手でそれを探り続けるのかというと、「果たしてこんな人になりたかったのだろうか」という問いが、常に自分に向けてあるからなのだろうと、今思い付いて書いてる笑。


実際のところ、何かを為して著名になる方を別として、大多数の人々は名もなき者として、その一生を終えるわけだけれども、その一生を一日毎に区切って区切って見てみると、誰もがたくさんの中の人に囲まれて、確かに存在している。


ということは、たしかに存在している以上は、自分という人間を成立させる義務があるのではないかと思っているのですね。


分かりにくいかな?
分かりにくいよね笑。


一つの街にたくさんの人がいる、その一人が私でありあなたであると言っているのですが、それはどういうことかと述べると、例えば、行政からの指導が入ったりテレビ番組で取り上げられるほどのゴミ屋敷を拵えると、それは明確に迷惑だという話。


そこから話を飛躍させると、たった一人素敵な人がいれば、そしてそんな人が無数にいたら、そこは素敵な街だということ。
自分の住んでいるところを愛せるかどうかというのは、そういう人々の「成す」平和が大きい、と思っている。


誰だって、自分の暮らすところが地獄のようであってほしいとは思わないだろうから。


そして日々暮らしているということは、日々生きているということで、自分をせめて気分のいいやつにしておくというのは、それだけですでに立派な社会貢献であると思うのでした。


話、まとまってるかな?
まあいいや笑。


どうしてこんなことを考えるのかというと、私は生きててよかったと思っているし、人は生きてこそだとも思っているからで、一々書かないけれど夢が潰えたりとか色々、何かで絶望はしていてもね、とりあえず生きていれば大丈夫だよと、死んだ後のことは分からないけれども。
(もちろん、何かしら例外中の例外である凄惨な出来事は前提としていませんので悪しからず)
(あえて明記しませんけれども)



この私にとっては、この些細な独り言ブログも逃げ場の一つではあるし、「お主はどのような人間であるのだ」という問いかけからは、たぶん死ぬまで逃れられないのだとも思っている。



あなたはどのような人間ですか、そしてどのような人間で「ありたい」と思っていますか。


私は、今いる「ここ」を美しく明るくしたいと、それだけは思っています。
世間にとって名もなき人である以上は、目の前のことをただ大切にするしかありません。


これがあなた様の多少の足しになれば幸いです。


夢佳

使う言葉はその人そのもの

何を書こうか思い浮かばない時って、何だか霧がかかったようによく分からないモヤモヤが晴れなくて、どうしたものかと更に困惑してしまう。



色んな方のブログを拝読していて、アクセスするだけで見ず知らずの個々の方のお知恵を借りられるというのは何という素晴らしき時代か、ありがたや、と思うのだけれど。


今日も(たぶん)重要な知見を得られて、そのこと自体は喜ぶべきことなのに、それによって考察した「現状」には、胸を痛めるなり、姿勢を正すなり、何かしらの作用が私にはあって。

もったいぶってもしょうがないよね。


私たち日本人は、たぶん母語である日本語のみを使い、一生を終える人が大半を占めると思うのですが、それが当たり前すぎて気が付かなかったことがあって。
たった一つの言語でさえ不自由なのは、とてもとてもマズイのではないかと。

そして、もし仮にいつかバイリンガルやその他が多数派になったとして、母語で扱える言葉の貧弱さに、足を引っ張られることがあるのではないか?と。



最近の私は「文化」という言葉に注目していて。
その「文化」という言葉の成り立ちを学んではいないので、真面目なジェントルマンはあてにしないで下さい、それで、その「文化」。
「文と化す」んだよね?
生きている時間を、文章にできるかということ?



もちろんそれだけの意味ではなさそうだけれど(推測)、「マジヤバい」だけで生きていたら、文字通り「マジヤバい」しか認識できないってことだよね。



本を読む人が頭がいいかどうか云々がいつぞやのネットのニュース記事になっていたが、それを踏まえて私の思いつきをまとめようとすると、読んだ物が自らの知性や感性の血肉になるとすれば、読んでいなければスッカラカンだよね、となる。



あああああ勉強しよう、と思う。現在が何歳であろうとも。



だって、文章を読めばその人が何者かを物語るよね。その人の人となり。
当然、今書いている「ここ」でもそう。


だから、作文がてんで無理な人と、それでも作文し続ける人とでは、たとえ素人であっても、いつか大きな大きな差になるのではないかしら。

そして、その差は、いつか未来に仮にバイリンガル(以上)が多数派になれたとして、如実に表れるのではないかと思う。



だって、書いてあること、言っていることの意味が分からないと「通じない」もの。


(出川哲朗さんは天才だから真似しようとしても真似できないよ笑。あちらの方が遥かに難しい)



小田和正さんの「言葉にできない」という歌だって、胸を打たれて感無量でという感性と知性のベースがあってこその歌だと思うの。
あの歌に心が揺さぶられるのは、自分の中にある、ありとあらゆる言葉を尽くしたとしても、どうにも足りないほどに嬉しいということであって、再び引き合いに出して悪いが、それに対して「マジヤバい」なんて言われた日には、泣きながら帰宅し辞書を引きずり出して、言葉という言葉を覚えようと軽く三週間くらいは徹夜したくなるに違いない。



だから、私はどこかしら何かしらで書き続けて、「文化的」に生きていきたい。ついでに自分らしく。
それによって、やさしそうな(と言われる)見た目と声で誤解されることは減るかもしれないと期待して…


かなり短気で口喧嘩なら親が相手でも負けない嫌な子どもだったのに、そういうのって、大人になるにつれて気を付けるようになるからね。


いつかある女性に「猫を被ってる」と初対面で言われてびっくりしたことがあったけれど(その節はありがとうございました、それにしてもお恥ずかしい、とんとご無沙汰しております)、図星だとね、気の効いた一言が出なかった!
修行が足りませんね。


怒ってる姿が想像できないとも言われるし、言われるとたしかに、その方との距離感だと、そもそも腹を立てるようなこともなく、よって普段のほとんどはご機嫌で過ごしていて、そう言われるのも納得なんだけど。

となるとね、私のキッツいところはほとんどの人が知り得なくて、やさしくて穏やかでしかない(それで癒される)という誤解を受けることは、この先も大して減らないかもしれない…

(癒し系なんて単語は早急に死語になるがいい)
(ついでに「天然」も。私はガスではない)



…一体何を書いているんだか笑。
ということで、「文化」です、文化。


このよく分からないブログも、読んでいてしっくりくる方が読んで下さることを願います。
きっと似たような「文化」の中で生きる者同士として、これからもご縁がありますように。



花蝶夢佳

あの頃にお世話になった美容師さんの話

探し物をしていて…もうずいぶんと昔の話を思い出したので、今日はそのことについてお話ししようと思う。


かれこれ十年近く前のこと。
初めて長くお世話になった、とある美容師さんがいた。たしか年齢は同じだったと思う、たまたま紹介してもらって、それからずっと、彼がお店を辞められるまで通い続けた。


まだ今よりもうんと若かった当時の私は、成人したとはいえ、とにかく本当の「大人」になりたくて、では大人とは何ぞと考えた時に、「色気がなければ」と考えていた。(こんな話、恥でしかない)


それで、ある時、今日の髪をどのようにしてもらうかその彼と話していた時に、「とにかく色っぽく見えるようにしてもらいたいんです」と、恥をしのんでお願いしたことがあった。


その時に彼に言われたことが、今でも忘れられずにいる。
「お化粧やヘアスタイルの工夫はあくまでも補助的なものであって、色気というのはその人自身から発せられるものであると思う」と。


まさか本職の美容師さんがそのように仰るとは、思いがけないこととはまさにそのことで、その日の彼との関係性といえば当然ながら美容師さんとお客さんでしかないのに、その時だけはただの人と人同士になったように錯覚した。


そして、この人はいい加減なことを言ってごまかしたりしないんだな、ましてや切実な打ち明け話を茶化したりもしないんだなと、ひどく胸を打たれて、同時にものすごく恥ずかしくなった。


どうしても綺麗な人になりたかったの、色気のある、という言い訳は無用で、もちろんきっちり「綺麗」には仕上げてもらってその日はお店を後にしたけれど、そのことが、今もずっと胸に残り続けている。


あれから何度か引っ越したりして、もうたぶん会うこともないとは思うけれど、どこかで元気でいてくれたらなと、思い出しながら思った。



夢佳

サン・サーンス

音楽といえばほとんどクラシックばかりを聴くが、ラジオのクラシック番組なんてちょうどいいものが世の中にあって、それはありがたい。

ちょうどいいなんて書くと語弊があるが、知らない音楽はまだたくさんたくさんあって、私にとっては新しく胸に響く音楽に出合える、とてもいい機会をもらっていると思っている。



それに関する最近のメモ書きには、こう残してある。


「狂気のピアノ

サン・サーンスピアノ協奏曲 第二番ト短調

33歳の時に三週間で作曲。」



初めて聴いたその曲に、すっかり動けなくなった。
特定の宗教に入れ込むわけではないが、神話や創世記さながらの、激しさと厳しさのつまった音楽に、何だか打ちのめされるようだった。


現代に演奏されている方ももちろんすごいが、あれをたったの三週間で作り上げるなんて、サン・サーンスという人は一体どのような顔つきと眼差しをもって生きていたのだろうと、そのことばかりが気になった。


何かを作り上げるその集中力と、たしかな知性、情熱に、すっかり心を奪われて…

それでも私自身は一先ず目の前のことをやるしかないんだけど、とてもあんな風になりたいとは思えない壮絶さの、あれは一つの物語だった。



夢佳

肌断食は向いてない

いつか記事にしようと思っていたが、肌断食に、或は肌断食で失敗した話。


関心のある方は一度は耳にされたこともあるのではないでしょうか。
「肌断食」は過剰と思われる手入れをやめて、肌本来の力を取り戻し美しさを手に入れる、魔法のような手法だと…私は認識していたのですが、きちんと関連書籍を読んだわけではないし、あまりいい加減なことは言えない。


これまでいくつもの化粧品を愛用してきたが、いつからか洗顔料もメイク落としも化粧水も乳液もマスクも、何もかも合わなくなって、ほとほと困り果てていたところに出合った概念だったため、これは助かったとばかりに、ワセリンのみを顔に塗る生活をしばらく続けていた。


正確には、謎の肌荒れによりワセリン以外を受け付けなくなっていた、ということも大いに手伝っていたのだったが…


顔の肌荒れと乾燥がひどくなる一方で、病院にて塗り薬をもらい、何とか日々をやり過ごしていた。



昨夏よりしばらくよくなったり悪くなったりを繰り返しながら、最近再び顔の肌荒れがひどくなったのを境に改めて病院にお世話になって…薬のおかげか肌の調子のよい時がまあまあ続くようになった。


今は医薬部外品の化粧水にも助けてもらっているが、顔に何かを塗って、しみない、痒くもならない、赤くもならないことがこんなにも嬉しいことなのかと、洗顔後に手入れをしながらしみじみ思った。


肌断食には何のうらみもないが、自分の肌質に合うか合わないかはもちろんのこと、私のように肌の手入れをすることそのものを「実は楽しみにしてきた」人には、向かないのではないかと思う。


何でもそうだけど、自分に合うか合わないかは自分で見極めていくしかないからね、こんな記事でもどなたかのお役に立てれば幸いです。



夢佳