思いのままの色

copyright © 2017 思いのままの色 花蝶夢佳

使う言葉はその人そのもの

何を書こうか思い浮かばない時って、何だか霧がかかったようによく分からないモヤモヤが晴れなくて、どうしたものかと更に困惑してしまう。



色んな方のブログを拝読していて、アクセスするだけで見ず知らずの個々の方のお知恵を借りられるというのは何という素晴らしき時代か、ありがたや、と思うのだけれど。


今日も(たぶん)重要な知見を得られて、そのこと自体は喜ぶべきことなのに、それによって考察した「現状」には、胸を痛めるなり、姿勢を正すなり、何かしらの作用が私にはあって。

もったいぶってもしょうがないよね。


私たち日本人は、たぶん母語である日本語のみを使い、一生を終える人が大半を占めると思うのですが、それが当たり前すぎて気が付かなかったことがあって。
たった一つの言語でさえ不自由なのは、とてもとてもマズイのではないかと。

そして、もし仮にいつかバイリンガルやその他が多数派になったとして、母語で扱える言葉の貧弱さに、足を引っ張られることがあるのではないか?と。



最近の私は「文化」という言葉に注目していて。
その「文化」という言葉の成り立ちを学んではいないので、真面目なジェントルマンはあてにしないで下さい、それで、その「文化」。
「文と化す」んだよね?
生きている時間を、文章にできるかということ?



もちろんそれだけの意味ではなさそうだけれど(推測)、「マジヤバい」だけで生きていたら、文字通り「マジヤバい」しか認識できないってことだよね。



本を読む人が頭がいいかどうか云々がいつぞやのネットのニュース記事になっていたが、それを踏まえて私の思いつきをまとめようとすると、読んだ物が自らの知性や感性の血肉になるとすれば、読んでいなければスッカラカンだよね、となる。



あああああ勉強しよう、と思う。現在が何歳であろうとも。



だって、文章を読めばその人が何者かを物語るよね。その人の人となり。
当然、今書いている「ここ」でもそう。


だから、作文がてんで無理な人と、それでも作文し続ける人とでは、たとえ素人であっても、いつか大きな大きな差になるのではないかしら。

そして、その差は、いつか未来に仮にバイリンガル(以上)が多数派になれたとして、如実に表れるのではないかと思う。



だって、書いてあること、言っていることの意味が分からないと「通じない」もの。


(出川哲朗さんは天才だから真似しようとしても真似できないよ笑。あちらの方が遥かに難しい)



小田和正さんの「言葉にできない」という歌だって、胸を打たれて感無量でという感性と知性のベースがあってこその歌だと思うの。
あの歌に心が揺さぶられるのは、自分の中にある、ありとあらゆる言葉を尽くしたとしても、どうにも足りないほどに嬉しいということであって、再び引き合いに出して悪いが、それに対して「マジヤバい」なんて言われた日には、泣きながら帰宅し辞書を引きずり出して、言葉という言葉を覚えようと軽く三週間くらいは徹夜したくなるに違いない。



だから、私はどこかしら何かしらで書き続けて、「文化的」に生きていきたい。ついでに自分らしく。
それによって、やさしそうな(と言われる)見た目と声で誤解されることは減るかもしれないと期待して…


かなり短気で口喧嘩なら親が相手でも負けない嫌な子どもだったのに、そういうのって、大人になるにつれて気を付けるようになるからね。


いつかある女性に「猫を被ってる」と初対面で言われてびっくりしたことがあったけれど(その節はありがとうございました、それにしてもお恥ずかしい、とんとご無沙汰しております)、図星だとね、気の効いた一言が出なかった!
修行が足りませんね。


怒ってる姿が想像できないとも言われるし、言われるとたしかに、その方との距離感だと、そもそも腹を立てるようなこともなく、よって普段のほとんどはご機嫌で過ごしていて、そう言われるのも納得なんだけど。

となるとね、私のキッツいところはほとんどの人が知り得なくて、やさしくて穏やかでしかない(それで癒される)という誤解を受けることは、この先も大して減らないかもしれない…

(癒し系なんて単語は早急に死語になるがいい)
(ついでに「天然」も。私はガスではない)



…一体何を書いているんだか笑。
ということで、「文化」です、文化。


このよく分からないブログも、読んでいてしっくりくる方が読んで下さることを願います。
きっと似たような「文化」の中で生きる者同士として、これからもご縁がありますように。



花蝶夢佳