思いのままの色

王様の耳はロバの耳

サボりすぎでしてよ

このブログの話です。

一つ違うことに夢中になると、すぐにそればかりになってしまう、ゆえに放ったらかす。
(あれ、方言かしらね)


ある意味分かりやすい人間なのだと、こういう場合にしみじみ、自分という人について思い知る。

皆さんは、ご自身について、どれだけ知っていて、また、どのような気持ちを向けておいででしょう?



こうしてブログを書くような人間は、きっとどなたも同じくらいかまたそれ以上に、どこかで何かを読まれていると想像するのですが。

私に限ってお話しますとね、読書の傾向というのはやはり限られてくるように思うのです。


つまり、「とりあえず何か一つ自分の中で解決するというか答えを出すまでは」同じ主題のものを、本を変え、人を変え、ブログを変えて、探り続けるのではないかと。



例えば私の場合ですと、「どのような人間としてあるか」というのは、外せないものみたいです。
分かりやすいものとしては、マナーの本とか、分かりにくいものとしては、こういう人が素敵だったというエピソードの載ったものとか。


どうしてあの手この手でそれを探り続けるのかというと、「果たしてこんな人になりたかったのだろうか」という問いが、常に自分に向けてあるからなのだろうと、今思い付いて書いてる笑。


実際のところ、何かを為して著名になる方を別として、大多数の人々は名もなき者として、その一生を終えるわけだけれども、その一生を一日毎に区切って区切って見てみると、誰もがたくさんの中の人に囲まれて、確かに存在している。


ということは、たしかに存在している以上は、自分という人間を成立させる義務があるのではないかと思っているのですね。


分かりにくいかな?
分かりにくいよね笑。


一つの街にたくさんの人がいる、その一人が私でありあなたであると言っているのですが、それはどういうことかと述べると、例えば、行政からの指導が入ったりテレビ番組で取り上げられるほどのゴミ屋敷を拵えると、それは明確に迷惑だという話。


そこから話を飛躍させると、たった一人素敵な人がいれば、そしてそんな人が無数にいたら、そこは素敵な街だということ。
自分の住んでいるところを愛せるかどうかというのは、そういう人々の「成す」平和が大きい、と思っている。


誰だって、自分の暮らすところが地獄のようであってほしいとは思わないだろうから。


そして日々暮らしているということは、日々生きているということで、自分をせめて気分のいいやつにしておくというのは、それだけですでに立派な社会貢献であると思うのでした。


話、まとまってるかな?
まあいいや笑。


どうしてこんなことを考えるのかというと、私は生きててよかったと思っているし、人は生きてこそだとも思っているからで、一々書かないけれど夢が潰えたりとか色々、何かで絶望はしていてもね、とりあえず生きていれば大丈夫だよと、死んだ後のことは分からないけれども。
(もちろん、何かしら例外中の例外である凄惨な出来事は前提としていませんので悪しからず)
(あえて明記しませんけれども)



この私にとっては、この些細な独り言ブログも逃げ場の一つではあるし、「お主はどのような人間であるのだ」という問いかけからは、たぶん死ぬまで逃れられないのだとも思っている。



あなたはどのような人間ですか、そしてどのような人間で「ありたい」と思っていますか。


私は、今いる「ここ」を美しく明るくしたいと、それだけは思っています。
世間にとって名もなき人である以上は、目の前のことをただ大切にするしかありません。


これがあなた様の多少の足しになれば幸いです。


夢佳

使う言葉はその人そのもの

何を書こうか思い浮かばない時って、何だか霧がかかったようによく分からないモヤモヤが晴れなくて、どうしたものかと更に困惑してしまう。



色んな方のブログを拝読していて、アクセスするだけで見ず知らずの個々の方のお知恵を借りられるというのは何という素晴らしき時代か、ありがたや、と思うのだけれど。


今日も(たぶん)重要な知見を得られて、そのこと自体は喜ぶべきことなのに、それによって考察した「現状」には、胸を痛めるなり、姿勢を正すなり、何かしらの作用が私にはあって。

もったいぶってもしょうがないよね。


私たち日本人は、たぶん母語である日本語のみを使い、一生を終える人が大半を占めると思うのですが、それが当たり前すぎて気が付かなかったことがあって。
たった一つの言語でさえ不自由なのは、とてもとてもマズイのではないかと。

そして、もし仮にいつかバイリンガルやその他が多数派になったとして、母語で扱える言葉の貧弱さに、足を引っ張られることがあるのではないか?と。



最近の私は「文化」という言葉に注目していて。
その「文化」という言葉の成り立ちを学んではいないので、真面目なジェントルマンはあてにしないで下さい、それで、その「文化」。
「文と化す」んだよね?
生きている時間を、文章にできるかということ?



もちろんそれだけの意味ではなさそうだけれど(推測)、「マジヤバい」だけで生きていたら、文字通り「マジヤバい」しか認識できないってことだよね。



本を読む人が頭がいいかどうか云々がいつぞやのネットのニュース記事になっていたが、それを踏まえて私の思いつきをまとめようとすると、読んだ物が自らの知性や感性の血肉になるとすれば、読んでいなければスッカラカンだよね、となる。



あああああ勉強しよう、と思う。現在が何歳であろうとも。



だって、文章を読めばその人が何者かを物語るよね。その人の人となり。
当然、今書いている「ここ」でもそう。


だから、作文がてんで無理な人と、それでも作文し続ける人とでは、たとえ素人であっても、いつか大きな大きな差になるのではないかしら。

そして、その差は、いつか未来に仮にバイリンガル(以上)が多数派になれたとして、如実に表れるのではないかと思う。



だって、書いてあること、言っていることの意味が分からないと「通じない」もの。


(出川哲朗さんは天才だから真似しようとしても真似できないよ笑。あちらの方が遥かに難しい)



小田和正さんの「言葉にできない」という歌だって、胸を打たれて感無量でという感性と知性のベースがあってこその歌だと思うの。
あの歌に心が揺さぶられるのは、自分の中にある、ありとあらゆる言葉を尽くしたとしても、どうにも足りないほどに嬉しいということであって、再び引き合いに出して悪いが、それに対して「マジヤバい」なんて言われた日には、泣きながら帰宅し辞書を引きずり出して、言葉という言葉を覚えようと軽く三週間くらいは徹夜したくなるに違いない。



だから、私はどこかしら何かしらで書き続けて、「文化的」に生きていきたい。ついでに自分らしく。
それによって、やさしそうな(と言われる)見た目と声で誤解されることは減るかもしれないと期待して…


かなり短気で口喧嘩なら親が相手でも負けない嫌な子どもだったのに、そういうのって、大人になるにつれて気を付けるようになるからね。


いつかある女性に「猫を被ってる」と初対面で言われてびっくりしたことがあったけれど(その節はありがとうございました、それにしてもお恥ずかしい、とんとご無沙汰しております)、図星だとね、気の効いた一言が出なかった!
修行が足りませんね。


怒ってる姿が想像できないとも言われるし、言われるとたしかに、その方との距離感だと、そもそも腹を立てるようなこともなく、よって普段のほとんどはご機嫌で過ごしていて、そう言われるのも納得なんだけど。

となるとね、私のキッツいところはほとんどの人が知り得なくて、やさしくて穏やかでしかない(それで癒される)という誤解を受けることは、この先も大して減らないかもしれない…

(癒し系なんて単語は早急に死語になるがいい)
(ついでに「天然」も。私はガスではない)



…一体何を書いているんだか笑。
ということで、「文化」です、文化。


このよく分からないブログも、読んでいてしっくりくる方が読んで下さることを願います。
きっと似たような「文化」の中で生きる者同士として、これからもご縁がありますように。



夢佳

あの頃にお世話になった美容師さんの話

探し物をしていて…もうずいぶんと昔の話を思い出したので、今日はそのことについてお話ししようと思う。


かれこれ十年近く前のこと。
初めて長くお世話になった、とある美容師さんがいた。たしか年齢は同じだったと思う、たまたま紹介してもらって、それからずっと、彼がお店を辞められるまで通い続けた。


まだ今よりもうんと若かった当時の私は、成人したとはいえ、とにかく本当の「大人」になりたくて、では大人とは何ぞと考えた時に、「色気がなければ」と考えていた。(こんな話、恥でしかない)


それで、ある時、今日の髪をどのようにしてもらうかその彼と話していた時に、「とにかく色っぽく見えるようにしてもらいたいんです」と、恥をしのんでお願いしたことがあった。


その時に彼に言われたことが、今でも忘れられずにいる。
「お化粧やヘアスタイルの工夫はあくまでも補助的なものであって、色気というのはその人自身から発せられるものであると思う」と。


まさか本職の美容師さんがそのように仰るとは、思いがけないこととはまさにそのことで、その日の彼との関係性といえば当然ながら美容師さんとお客さんでしかないのに、その時だけはただの人と人同士になったように錯覚した。


そして、この人はいい加減なことを言ってごまかしたりしないんだな、ましてや切実な打ち明け話を茶化したりもしないんだなと、ひどく胸を打たれて、同時にものすごく恥ずかしくなった。


どうしても綺麗な人になりたかったの、色気のある、という言い訳は無用で、もちろんきっちり「綺麗」には仕上げてもらってその日はお店を後にしたけれど、そのことが、今もずっと胸に残り続けている。


あれから何度か引っ越したりして、もうたぶん会うこともないとは思うけれど、どこかで元気でいてくれたらなと、思い出しながら思った。



夢佳

人に認められることを求めてしまうのは何故なのだろうね

常々考えてしまうことなのだけど。
標題のとおり、「人に認められることを求めてしまうのは何故」なのだろうね。


特に厄介なのが、この人にだけは認められたいと、自分の中での達成の度合いを自分以外の人間に求めてしまうこと。


出来るだけそういうところから離れよう離れようとしてきたつもりが、ふと気付くとまたいつの間にか認められたいという気持ちが生えているのに出くわす。


そういう雑念は目標の達成には正直なところ邪魔でしかないし、いい加減にしてくれないかなとも思うのに、弱気になっているところ、いわゆる隙につけ入られているみたいで悔しい。


それでも知っているはずなのに、私は私が力を尽くしていることを。
出来るだけのことをしてきたはずということを。
これは不毛で情けないなあ。


見返してやりたいという気持ちが強すぎるのだろうか。
これではいつまでも他人に振り回されるばかりではないか、どれだけ距離を置いたとしても。



物足りないのかな、もっと追い込まないと納得しないのかな、私は、私に。



夢佳

同時に多発する自分

読まれるかどうかも不確かな不特定多数に向けて書くのはどうかと思うが、私にも地面に掘った穴が必要なのだと思う。

気持ちの弱った人は、できたらこの先を読まずにいてほしい。



YouTubeなんかで少し気になっている歌を聴いて、縁あってその曲の全貌を知ることになったのだけれど。

始まりの和音を聴いただけで、あ、これは一人で聴かないとマズイなと思って、瞬間的に他のことに気を向けた。
何人かでの旅の途中の車中で、急に泣き出す訳にもいくまい。



いい曲だよね、って、聴かせてくれた友人にとっさに話し掛けた。
黙っているとしっかり聴いてしまいそうだったから。



お家に帰って、しばらく経って、なかなか聴く勇気が出ない。


一度、もらったCDアルバムをサラッと一周聴いてはみたが、その曲にどうしても気が行く。


あーあ。見つけちゃった。


知ってたつもりだったけれど、たまたま見つけた、たった少しの動画で心を動かされていたのだもの。
全て聴くのが、ちょっと怖かった。


でも、聴くしかない。




突然話が変わるが、私はこれまでの年齢の私自身が同時に存在すると考えていて。
今この時に、例えば小さな時の私が、共に存在すると。

あの時もその時も立ち尽くすしかなかった、小さかった時の自分。
何かを感じているのに言葉にもできない、上手く、適切に、自分の心に沿った言葉で言い表すことのできないもどかしさ。


大人になるというのはいいことだ。
そのような不自由さからは多分に解放される。
たくさんの言葉を持つ、知っていくというのは素晴らしいことだ。


それでも、どうしても掬いきれない、認識できる範囲をすり抜けて心の底に落ちて行ったその時々の感情の数々を、たった一つの歌が、始まりの和音が、どうしようもなく心に響いて、否応なしに突きつける。


日常で一々受け止めていたらやり過ごせないこと。

あの時に解決したと思っていたはずの、実は遣りきれなかった気持ち。

「今」直面するのはまずいと、咄嗟に追いやった感情。



どこかへと仕舞いこんだ思いの丈が、言葉にはならず、代わりに視界が滲むその時に、思い知るのだ。

そっか、しんどかったね、自分で気付くことも出来ずに、と。



たった一人で抱えて、泣くことも堪えて、何からそんなに守ろうとしていたの、と。


そうして声を上げて泣く時に、上手く理由が見出だせないながらも、止まらない嗚咽にひどく納得している自分に気付く。
そして、同時に存在する幼い私を思って、今よりかは若かった時の私を思って、今は泣いてるだけだから大丈夫だよって、一瞬思う。もう大人だからね、泣くのはここでだけ、何とかしてきたし、これからも何とかしていけるから大丈夫って。


そして、これが誰かの前ですることでなくてよかったと思う。


慰められるなんてまっぴらだ。

一々余計なことを言わない人の方が、私は好き。



再び話は逸れるが、小学生の頃にしていたソフトボールの監督に言われた、泣いている人に声を掛けるのだけが優しさではないぞって話と、その情景を思い出す。
悔しくて泣いている当時の友人に、居たたまれなくてつい側に行ってしまったが話してはくれず、その彼女を思う優しい気持ちは良いし分かるけれど、と。
当時はその言葉の意味を分かっても、すぐに腑には落ちず、彼女にひどく悪いことをしてしまったと、思いやりの足りなかった自分を恥ずかしく思ったものだった。



生きてれば、色々あるけれど、基本的にはここまで生きてこられたことを、祝福していたい。
誰もが等しく、その人の時間を生きている。
それを思うと、命のある私は幸せだし、幸せでいられる。


どれだけ泣いても、生きてれば大丈夫。
これまでの私を救って、ここからの私も何とかする。



以前、歌を何で聴くかと訊かれたことがあった。音に感動するのか、歌詞に感動するのか、何があなたの心を揺さぶるの、と。

私は音が先だ。歌詞の意味を認識するよりも早く、音が、胸に広がる。
もちろん歌詞にも胸を打たれるが、何かを聴いた時の、あ、見つけちゃった、というのは、それぞれの「この音」からばかり始まる。

サイレンが用を成すのも、危機の迫ることを端的に表しているからだろう。

だからきっと誰もが、音から、自分の内に取り込むのではないだろうか。



自身で気付き得なかった、今の心の形に寄り添う音楽。
様々な思いがふっと一時に押し寄せて、突風が雨を連れて、景色の何もかもを洗い去っていく。


それに成す術もなく、傘も差さずにやっぱり立ち尽くして、でも同時に存在する私が-----これまで生きてきたのだもの-----支えてくれている気がする。


だから、うっかりたくさん泣いても大丈夫。
そのうちに雲の切れ間から光が差して、また日常に戻ればいい。

定まらない道について

何だかこれも本当にたまたまなのですが、
「本当はやれるのに やらないままで後悔するのが怖い」
って、あるタレントの方が言われていて、
またこういう言葉が胸に響くタイミングなんだな、どうすんの、と少し考えてしまった。

とりあえず日記(というか一応の記事)を書く。



ブログを続けている間で、いずれどこかで自分の半生を語りだすかも知れませんが、とりあえずはぼんやりとだけ書いておこうかな。


一応は夢が叶って、一応は夢が破れた状態なのが、今の私です。


その夢というのを貫き通す意志が、色々と経験するうちにどこかへ消えてしまったように思えて、すっかり塞ぎこんでしまい、まだ立ち直る途中にいます。


自分がどうしたいのかが上手く掴めないのは辛い。


何かで失敗するのとか、自分の足りないところに気付くのとかは、多少悔しくても何とかできるけれど、
「それであなたはどうしたいの?」
って自分に聞いて、答えが出てこないのが、夢を追い続けていた時間との落差の分、堪える。


それで、とりあえず自信を無くしたままでいるのは止めようと思い、ピアノを再開した。
子どもの頃習って、ずっと続けていて、大人になってからできたブランクが気掛かりだったのを、それこそ「自分の手で」解消してるところ。



昔は弾いていたのですが(ゴニョゴニョ)と、謎の申し訳なさを感じていたのにもおさらば。


ほとんど毎日続けていて、たとえそれがほんの少しの時間であっても、何だか私には嬉しい。
夢のためにどこかへ追いやっていた自分を取り戻せた感じ。



事情はどうあれ、心情としては怖くてその夢に身投げできなかったのが事実でもあるので、余計に引きずっているのかも知れない。



何だか上手くまとまらないけれど、とりあえずはここまで。



ごきげんよう、さようなら。