思いのままの色

© 2017 思いのままの色 夢佳 「音と香りは夕暮れの大気に漂う」

mixiは続いていてFacebookは続かない理由を考えてみる

更新の頻度はゆるりとしたものだが、mixiは続いている。

対して、Facebookは先日書いた通り、とんと更新どころかログインすらしていない(スミマセン)。

特に書くことを思い付かなかったので、今日はそれが何故かを考えてみる。



たぶん重要な点としては、mixiはほとんどの人が放置している、というところにあるのだと思う。
そして、ログインしている組は、私にとってごく親しい人ばかりだ。


mixiで日記を書いても確認してもらえる。
ただ読んでもらえることが嬉しくて、親しい人に近況報告をすることにしっかり役立っている。



それに比較して、Facebookの方は営業目的で繋がった方や、卒業以来顔も見ていない、ましてや連絡先など知る由もない旧友とも繋がってしまっている。

この辺りは悩んだところもあったが、現代を生きる上ではやむを得ない。


いちいち人員整理をしなければならないほど「友達」の人数の拡大を積極的にはしてこなかったこともあり、きちんと顔も声も浮かぶ人ばかりと繋がっているとはいえ、だからこそ突然アカウントを消してしまうほど思い切ったこともできず、消極的手段として「ログインしない人」というカテゴリに入ってしまうことによって、自分の心を守っている。


(同業者の活躍なんて羨ましくて見ていられない、というのが一番大きい)

(羨むのはお門違いだとは頭では分かっても、気持ちがついてこない)

(まだまだ修行が足りませんな)



加えて、そういう様々な距離感を無視して自分の投稿ができるような感覚がないし、そもそも、Facebookを上手く使える方は、人によってさほど距離感の違いを意識することがないのかも知れない。
これはどこまで行っても想像の域を出ないけれど。

仮に私が自身や他人の宣伝のみの手段として限定していたとしても、Facebookを上手く使えなかったことは事実である。


どうして皆平気なんだ…


私にとっては閉鎖的なところの方が向いているらしい。
人当たりはよいが(そんなの当たり前だ)、親しい人は限っている。
誰に心を許すかを選ぶのもまた当然のことと思っている。


昨年「HSP」という概念を知ったが、自分が正にそれで、これは知ったことで楽になったことでもあるので、また改めて別の記事にしようと思う。



強引に話を戻すと、SNSが無かった頃のような「お元気で、さようなら」を、通しにくい世の中だな、と思っている。


粋(いき)というのはもう死語なのか、すっかり野暮がまかり通る世の中になってしまった。
果たしてこんな大人に、なりたかったのだろうか。



夢佳

フルート再開

この間、たまたま時間ができて、久しぶりに楽器に触ることができた。

私のフルート、記憶が正しければ、ほとんど一年振りに吹いた。


昨年はおよそ五年のブランクを経てフルートを吹いたが、案の定、音なんて出ない。
持ち方も運指も覚えているのに、口の感覚が全く訳が分からなくなっていて、せっかく自分の楽器があるのだもの、無理矢理にでも続けていればよかったとひどく後悔した。


違う夢を追っていてフルートの練習どころではなく、フルートを置物にしておくのも可哀想で、ちょうど楽器を借りたいという人に縁があり貸していたのだったが、何とか時間を捻出して、どのような形であれやり続けていればよかった。


以前も大して腕が立った訳ではないが、確実に下手になったよ!


でも仕方ない、これからまた地道に練習するのだ。


それで、消失していた口の感覚を、随分と昔に習った時のことを何とか再現しようとして奮闘していたのだが(昨年)、てんで上手くいかなかった。その絶望と後悔に負けてしばらくまた楽器を触らずにいたが、楽器はあるし、たまたま時間もできた。


時間ができて、目の前に楽器がある。
そのおかげで、ちょっとだけ、吹いてみようと思えた。


楽器をケースから出す時って、もう何度目なのか、未だにどうしてもドキドキする。
無事かな、元気かな、と確認するような心地。


ピカピカのままだった、フルート。
ごめん、お待たせ。


今回はまた以前のようにやろうとするのは止めた。
ブランクの埋め方を調べて、くちびるの形は人それぞれ、私が音を出しやすいやり方を見つければいいと、一つの答にたどり着く。

あの人やあの人のような口許になりたいと、一生懸命力を込めていたくちびるを脱力させて、やさしく歌口(息を吹き込むところ)に吹き込んだ。


すると、余分な息の漏れがかなり減って、昨年よりもマシに感じられる。
吹いた時のあの音に手応えのある感覚も少しある。
これはこのやり方を続けて掴んでみるといいかも知れない。


というわけで、すっかり気を良くして、使える時間いっぱいまでフルートの練習をした。そのほとんどをロングトーンに費やす。


またどこかで吹ける日が来る時まで、気長に、フルートを続けることにする。

頂き物は頂こう

何の事やらよく分からないタイトルになった。


時折、どっと方々から色んなものを頂く機会に恵まれる。

割合としては食べ物が一番多い。
有難い話だ。


それで、いつからか、というか、きっと断捨離を始めて、片足だけミニマリストになってから、頂き物はできるだけ速やかに頂くことにしている。

これは全くもって、自然に心掛けるようになった。


頂いた時がきっとその食べ物の一番の旬だということにして、それからちょこちょこ食べる。


お家にお客さんがある時の「お持たせ」を頂くというのではなくて、そういう時は事前に何か用意しておくものね、お裾分けとか、どこかへ行った時のお土産とか、そういったものを、できるだけ速やかに頂くということ。


早めに頂いてしまえば、下さった方に次に会った時に、「ごちそうさまでした」と「美味しかったです」が言えるし、ありがとうと嬉しいの気持ちもより伝わるのではないかと思っている。


最近頂いたタケノコも美味しかったな…
甘みがトウモロコシに似てたよ。
たくさんありがとう、ごちそうさまでした!

愛を込めて花束を

今日は久しぶりにブーケを作った。
思いの外喜んでもらえて、とても嬉しかった。



使った花
カラー
トルコギキョウ
スプレーバラ




カラーを使ったのは初めてだったけれど、茎に向きがあって(三面あったかしら)思ったように組むのが難しかったなあ。
でもそれが面白かった。


自宅には花を欠かさないが、それとは別に、自分の好みも加味しつつ、渡す相手の好みを想像して花束用の花を選ぶのは、何ともわくわくして楽しかった。


贈るという目的があると、花を買う言い訳になって、何となく気が楽でもある。
たくさん買っても、あの人に渡すものだしいいか、となる。

多少余らせた花を自宅にも生けておけるのも嬉しい。


ところで、今回は珍しく、つぼみだったバラの花が開いてきている。
つぼみのままで咲かないことの方が多かったので、これは吉兆だと一人で喜んでいる。

頂き物あれこれ

さて今日は何を書こうかなとブログを立ち上げてみたものの、取り立ててhotな話題がない。


個人的に驚かされるようなニュースに見舞われないことはよいことなのだが、はて、困った。


それで思い付いたのが、「シリーズ頂き物」。
何だかんだ、人様から何かしらの物を頂くことがあるので、その御礼と備忘録も兼ねて、書いてしまおうと思う。


と、書きながら、真っ向から否定するのもアレだが、SNSなんかで私が付き合いのあるどなたかに何かの折に差し上げたりしたものを記事に書かれるのが、ひどく苦手である。
言い方は悪いが、厚意や謝意をネタにされたみたいで、何だか寂しい気持ちになるのだ。


ところがこちらは全くの匿名である。
そして、私が頂き物について書こうと思った動機が「御礼と備忘録」なので、SNSで書かれた方も案外それくらいの気持ちで他意はないのかも知れない。


いずれにせよ他人の本意は分からないので、この辺りにして、個人の雑記ブログに書くのであれば許されるのではないかと勝手に解釈をし、これからはたまに記事にしようと思う。
言わずもがな、全てを子細に書き込む訳ではないため、贈って下さった方に迷惑は掛からない、と信じることにしよう。



最近の頂き物の中に、桜のゼリーがあった。
2層になっていて、土台がババロアの様で、上部が淡いピンク色をしたゼリー。そのゼリーの中に桜の花と金粉が乗っているもの。


上品な甘さで、世間の桜はほとんど散ってしまったが、その名残を頂いた感じがして、風情もあって美味しかった。

こちらは緑茶ではなく、紅茶と一緒に頂いた。


カップから器に移して頂いたのだが、何となく桜の花のある部分は最後に食べたくなってしまう。


塩漬けという感じの味でもなかったが、柔らかくて、その柔らかさの印象が強い、八重の桜だった。


きらきらした金粉にふわふわの桜に、美しいものを体に入れると、何だか一時美しくなれたように思えて、勝手に嬉しくなってしまう。


時を同じくしてブラッドオレンジも頂いたが、こちらも思ったよりも甘さがしっかりとあり、サクサクとした歯応えがあってとても美味しかった。


実はミカンを除く柑橘類が苦手であるが、酸っぱさがなければ好きな方に入るのかも知れない。
自身への思い込みというのも結構あるものである。


美味しく素敵なものをありがとうございました。

初夏のクローゼット

桜もすっかり葉桜になり、あの夢のような光景がそれこそ夢だったかのように緑が押し寄せてくる。


季節が変わるのは早い。


冬物のコートなんかは3月に入った時点で早々に片付けてしまっていたが、ニットの類いはしばらく出したままで、気が付くと4月も終わり掛けている。


この間、肌寒い時に、うっかりカシミヤのニットを着てしまったが、昼間になるにつれて暑かったのはもちろんのこと、4月の日差しには少々不釣り合いな感じがして、その日の帰宅後に洗って片付けてしまった。


今もしぶとく着ているニットは綿が主体のものだが、もうそろそろ限界かも知れない。


昨年辺りまで春先に着ていたものは、季節が終わった頃に処分してしまったため、今は昨年とは別人のような格好をしている。


今年は何を着ようかな。
と言っても、もう春どころか初夏の気配がしているんだけど。


先日、羽織るものを求めて買い物に出掛けた時に、たまたま見つけた、薄い青に細い細い白のストライプの模様のシャツを買い求めそうになったが、今の私の髪型と相まって、どう見てもブルゾンちえみさんだったので、思い止まった。

ブルゾンさんは好きだけど、三十路の星だと思ってる、私はお化粧も面倒で薄くしかしないし、あんなにセクシーな体型ではないので、シャツをしっかり着て少年のような見た目になってもなあ、と、思い止まったのだった。


何の話だったか、そうそう、結局羽織るものは淡いグレーのパーカーを入手して、あれ?やっぱり少年みたいだ笑、でもグレーのパーカーは冬場も着ていて、それこそ冬用の物を仕舞った代わりにクローゼットにお迎えしたので、見た目は昨シーズンから大して変わっていない。


さすがにパーカーだけで生きていくわけにはいかないので、その中に着るものをどうしようかな、と思っている。


カーキのテロんとした生地のシャツもうっかり増やしたが、そちらにはまだ袖を通していない。


シャツは他にも少し持ってはいるが、アイロン掛けが、ちょっと億劫でなかなか手が伸びない。
季節感はバッチリなんだけどなあ、シャツ。


流行りのふわふわした袖の服とか、花の刺繍が施されたブラウスとか、かわいいけれど、写真や道行く人の着姿を見るだけで満足してしまう。


おしゃれもしたいが、忍者にもなりたいぞ。
どうしよう。初夏のクローゼット。


買い足したグレーのパーカーとカーキのシャツを、とりあえずは活躍させようか。

Facebook幽霊部員

タイトル通り、なので何のひねりもありませんが。
Facebook幽霊部員です。


アカウント消す消す詐欺時代を経て、スマートフォンFacebookアプリを消してからは、ひたすらにログインしない日々。


アカウントを消す元気は消失。
でもアプリを削除しただけ、距離ができてよかった。


どなたかが更新なさる度にアラートが鳴るのを、あれは設定で変えられたりするのかしら、分からないままで面倒だったので、アプリだけやっつけてしまった。


何とまあ静かなことよ。
素晴らしく。


他は電話かメールくらいしか私を呼びつけないスマートフォン
最高!


数年前に勢いに負けて始めてしまったFacebookだったが、どうにも苦手意識が消えないままで、これはシステムに慣れれば何とかなるのかとも思ったが、私にとってはそういう問題ではないらしい。


一つ思い当たる節がある。


Facebookって、学校そのものだなってこと。
実際には選んであるはずの人間関係が、「付き合い」という「世間」のもとにほぼ無尽蔵に増えていく。

これに着いていける、もしくは、それを楽しめる人は、学校が大好きだった人に違いない。


よくよく思い返してみると、Facebookのそもそもの成り立ちからして、この主張とも言えぬような主張も、あながち間違いではないのではなかろうか。


何となく学校という環境そのものを心の芯にまで落とし込んでいなかった、つまり、面倒くさいなって思いながらも通っていた私のような人間としては、Facebookを活用することなんて、ハナから向いているわけがないのだ。


あースッキリした。


Facebookは一応連絡手段の一つではあるので、さすがにアカウントを消すまでは振り切れないけれど、そこそこ学生生活を上手いことやっていたように見えたであろう私としては、そこの所は適当にしたままなのでした。


何の気負いもなく自然と楽しめるのは羨ましくもあるけれど、いいんだ、無理は続かないもの。


そのうちログインすると思うとドキドキする!
何も投稿したりしないけれど。

サシで話すのでもなく、こうして不特定多数に向けて書くのでもなく、特定多数のしがらみ有りに向けて書くっていうのが、演説ならまだしも…それか何かの宣伝ならいけるのか…とにかく感覚としてよく分からないままだった。



結論、私の知らないところで皆それぞれ元気でいてくれたらそれで十分だ。
お幸せに!


そろそろ初夏の気配がしますね。